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アメリカ東部沿岸にあったイギリス植民地領は本国イギリスによる植民地課税に反発、有名な「ボストン茶会事件」など、本国の増税をもくろむ様々な法の成立に対し、植民地商人の怒りは頂点に達しました。1775年、大規模な軍事衝突が始まりましたが、当時のアメリカ植民地には正式な軍隊などはなく、各植民地の民兵隊がイギリス正規軍と戦いました。戦況は数に勝るイギリス正規軍が常に有利だったにもかかわらず、ニューヨークやフィラデルフィアなどの都市を占拠したものの、当時のアメリカ植民地は広大な範囲に点々と独立自治的な植民地が点在していたため、どこを占領したとしてもあまり意味をなしませんでした。また疫病の流行により、天然痘の死者が戦死者を大きく上回ったりしたこともイギリスの敗因の一つでした。結果的に海を渡っての長期戦により戦況は徐々にアメリカ軍に傾き、1782年イギリス議会は停戦を決議、1783年のパリ講和条約により、正式にアメリカはイギリスからの独立を勝ち取りました。

300px-Battle_of_Lexington,_1775

アメリカ独立戦争の頃から、徐々にではあったが奴隷制度は国全体と白人にとって好ましいものではないという考えが、北部の市民の間に広まっていきました。アメリカ北部は独立戦争の初期において戦地であったゆえに様々な産業が効率化し、綿やたばこ、砂糖のプランテーションを主力産業とする南部に比べ、奴隷の労働力をあまり必要とはしませんでした。逆にこれからのアメリカ合衆国にとって多くのアフリカ人を国に流入させることによる治安の悪化というリスクの方が大きいと考えたようです。

しかしこの考えは奴隷を自由にするというものではありませんでした。逆に南部の奴隷たちには独立戦争後に非常に大きな試練が与えられます。それは北部諸州が奴隷法を禁止して州内での奴隷売買を違法としたことによって北部の奴隷商人が大量の黒人を南部に売りつけたことや、綿織り機の発明により爆発的に成長した綿花産業が西部に拡大したことによって南部の奴隷たちが高額で西部に売られたことによる大移動です。この国内奴隷貿易と言う新しい市場が生まれたことで、約半世紀にわたり多くの黒人が強制的に移住させられました。

このことは多くの黒人奴隷たちに衝撃を与えました。暴力の支配と無報酬の労役があるとはいえ、南部プランテーションは成熟期を迎えており生活そのものは日々変わりなかったものが、ある日突然家族から引き離されてアフリカから強制移住させられた当初のように見知らぬ土地へと連れて行かれるのです。奴隷商人は黒人奴隷を個々に単体の商品として売買したがりました。ですので若い元気な男性、子供が生める健康な女性などは商品価値が高く、逆に年老いたものは軽労働しかできない価値の低い商品とみなされ安い値段でまとめ売りのようにされました。家族と言う結びつきはまったく考慮されないので、多くの者は引き離され二度と顔を見ることさえできなくなるわけです。また中西部は農地としてはまだ未開拓であったため、森林の伐採、開墾という重労働がメインで、しかも水や食料の供給も十分でなかったために多くの奴隷が命を落とすことになりました。





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こんにちは。Everlasting Joy、S.M.S Gospel Choir代表のBee芦原です。このブログではゴスペルの歴史や聖書のことなどを僕の知識と参考文献からの引用から、わかりやすく解説できたらと思っています。専門家ではないので自己解釈で誤った記述もあると思います。お気づきの方はご指摘いただければ幸いです。

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