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北アメリカ大陸における奴隷制度はコロンブスによる新大陸発見(1942年)の翌世紀、1500年代から始まったと言われているが、コロンブス自身も奴隷商人の肩書を持っており、彼の航海日誌にははじめて原住民(アラワク族インディアン)と出会ったときのことをこう記述している。

「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」
「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した。」(ウィキペディアより)

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このことからもわかるようにこの時代はヨーロッパでは奴隷制度は社会の一部であり、社会的弱者(戦争による捕虜や、誘拐された子供など)の人身売買は一つの経済行為として確立していた。北アメリカ大陸においてははじめはスペインやイギリスの本国からの奴隷が主流で、それに加えアメリカ大陸の先住民も貴重な労働力として利用された。しかしヨーロッパから持ち込まれた病原体に対する免疫がなかったため、先住民の80%が短い期間で死滅したと言われる。

当時の事情としてイギリスを深刻な不況の波が襲ったこと、そして繊維工業の発達により多くの農地が羊の牧草地に変わり、雇われ農民が大量に職を失ったことなどがあげられる。彼らの多くは新天地アメリカに将来の希望を託して入植することになり、未開拓地で原住民を征服しながら土地を開拓するために多くの労働力を必要とした。

そのため原住民や本国からの奴隷だけでは労働力として十分に賄うことが出来なくなり、イギリスやスペイン、ポルトガルの入植者たちは先を争うようにアフリカからの奴隷を用いるようになった。奴隷をアフリカからアメリカに輸送するのは奴隷貿易を専門とする商人が行い、やがてそれは「三角貿易」と呼ばれる巨大な利益を生み出す経済行為へと発展していく。

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上の図はイギリスのものだが、本国で生産された工業製品がアフリカに運ばれて、そこで得た利益で黒人奴隷を買い入れ、その奴隷がアメリカで売られることでまたまた利益を生み出す。これが三角貿易と呼ばれる仕組みである。しかし当時の奴隷船の環境は劣悪で、記録によれば1619年にポルトガル人がジェームズタウンの入植者に奴隷を運んだ際には100人乗せた奴隷が長い航海の中次々と死んでしまい、到着時には20人しか残っていなかった。

当時の奴隷船は人間を運ぶというにはほど遠い形で、暗い船倉にまるで商品を運ぶように積めるだけ積むといった劣悪極まりない環境であり、奴隷たちは何か月もの間、十分な運動もさせてもらえず、また一日に数時間だけ甲板で鎖につながれて陽の光を浴びるだけという状態で輸送される。船倉はただの倉庫でトイレや洗面所もないので、排泄物は垂れ流しとなるために疫病が蔓延し、大量死につながっていく。死亡した奴隷は海に捨てられて生命力の強い者だけが生き永らえるが、そこまで過酷な試練を超えた先に待っている未来は奴隷としての人生だった。

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参考文献:「ゴスペルの暗号」/益子務著(祥伝社)
ゴスペルの暗号 秘密組織「地下鉄道」と逃亡奴隷の謎


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こんにちは。Everlasting Joy、S.M.S Gospel Choir代表のBee芦原です。このブログではゴスペルの歴史や聖書のことなどを僕の知識と参考文献からの引用から、わかりやすく解説できたらと思っています。専門家ではないので自己解釈で誤った記述もあると思います。お気づきの方はご指摘いただければ幸いです。

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