Category : 奴隷制~黒人霊歌
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ゴスペルの中でもとりわけアメリカのブラック・ゴスペル(黒人教会音楽)を語るうえで、
まず知っておかなければいけないことは、アメリカ大陸におけるアフロ・アメリカンの人たちが
背負わされた過酷な奴隷制度とその後の現在もまだ続いている不当な差別の歴史です。

16世紀から始まったと言われているヨーロッパ人によるアフリカ人の奴隷化と人身売買貿易。
その過酷極まりない実情に向き合いながら生きていくアフロ・アメリカンの精神的な
支えとなったのが、聖書に書かれる「神の御国」への回帰願望と、メシア(救世主)による
解放への期待でした。

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アフリカ人はもともとは土着の信仰を持っていましたが、彼らを「所有」するヨーロッパ人達は
管理目的のために道徳観を統一する必要があり、その道徳概念の根底となる「キリスト教」を
強制的に学ばせました。しかしその教育はヨーロッパ人の都合に合わせた形で歪められており、
奴隷たちがアメリカに来たことにより、新しい文明に出会えたことがいかにラッキーであるか、
もとのアフリカの生活と比べ衣食住の保証された現在の生活がいかに幸せであるかということを
「神様の祝福」という言葉を使って教え込むものでした。

しかし黒人奴隷たちは表面的には主人である白人に従順で無邪気なフリをしてはいましたが、
それは頭の良い彼らが暴力から我が身を守るための知恵であって、実は彼らなりの解釈が
存在し、上記の「解放」「救済」こそが彼らのキリスト教信仰の土台となっていきます。

それではこの章では、簡単ではありますが「奴隷制度の時代」について勉強していきましょう。
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北アメリカ大陸における奴隷制度はコロンブスによる新大陸発見(1942年)の翌世紀、1500年代から始まったと言われているが、コロンブス自身も奴隷商人の肩書を持っており、彼の航海日誌にははじめて原住民(アラワク族インディアン)と出会ったときのことをこう記述している。

「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」
「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した。」(ウィキペディアより)

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このことからもわかるようにこの時代はヨーロッパでは奴隷制度は社会の一部であり、社会的弱者(戦争による捕虜や、誘拐された子供など)の人身売買は一つの経済行為として確立していた。北アメリカ大陸においてははじめはスペインやイギリスの本国からの奴隷が主流で、それに加えアメリカ大陸の先住民も貴重な労働力として利用された。しかしヨーロッパから持ち込まれた病原体に対する免疫がなかったため、先住民の80%が短い期間で死滅したと言われる。

当時の事情としてイギリスを深刻な不況の波が襲ったこと、そして繊維工業の発達により多くの農地が羊の牧草地に変わり、雇われ農民が大量に職を失ったことなどがあげられる。彼らの多くは新天地アメリカに将来の希望を託して入植することになり、未開拓地で原住民を征服しながら土地を開拓するために多くの労働力を必要とした。

そのため原住民や本国からの奴隷だけでは労働力として十分に賄うことが出来なくなり、イギリスやスペイン、ポルトガルの入植者たちは先を争うようにアフリカからの奴隷を用いるようになった。奴隷をアフリカからアメリカに輸送するのは奴隷貿易を専門とする商人が行い、やがてそれは「三角貿易」と呼ばれる巨大な利益を生み出す経済行為へと発展していく。

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上の図はイギリスのものだが、本国で生産された工業製品がアフリカに運ばれて、そこで得た利益で黒人奴隷を買い入れ、その奴隷がアメリカで売られることでまたまた利益を生み出す。これが三角貿易と呼ばれる仕組みである。しかし当時の奴隷船の環境は劣悪で、記録によれば1619年にポルトガル人がジェームズタウンの入植者に奴隷を運んだ際には100人乗せた奴隷が長い航海の中次々と死んでしまい、到着時には20人しか残っていなかった。

当時の奴隷船は人間を運ぶというにはほど遠い形で、暗い船倉にまるで商品を運ぶように積めるだけ積むといった劣悪極まりない環境であり、奴隷たちは何か月もの間、十分な運動もさせてもらえず、また一日に数時間だけ甲板で鎖につながれて陽の光を浴びるだけという状態で輸送される。船倉はただの倉庫でトイレや洗面所もないので、排泄物は垂れ流しとなるために疫病が蔓延し、大量死につながっていく。死亡した奴隷は海に捨てられて生命力の強い者だけが生き永らえるが、そこまで過酷な試練を超えた先に待っている未来は奴隷としての人生だった。

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参考文献:「ゴスペルの暗号」/益子務著(祥伝社)
ゴスペルの暗号 秘密組織「地下鉄道」と逃亡奴隷の謎


日本で「ゴスペルの曲で一番に思い浮かぶのは?」と質問すれば、たぶんこの曲が一番多いと思われる。

作詞者ジョン・ニュートンは1725年、イギリスに生まれた。母親は幼いジョンに聖書を読んで聞かせるなど敬虔なクリスチャンだったが、ジョンが7歳の時に亡くなった。成長したジョンは、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなったが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に手を染め巨万の富を得るようになった。

当時奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、栄養失調などの原因で死亡したといわれる。

ジョンもまたこのような扱いを拉致してきた黒人に対して当然のように行っていたが、1748年5月10日、彼が22歳の時に転機はやってきた。船長として任された船が嵐に遭い、非常に危険な状態に陥ったのである。今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈った。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったという。すると船は奇跡的に嵐を脱し、難を逃れたのである。彼はこの日をみずからの第二の誕生日と決めた。その後の6年間も、ジョンは奴隷を運び続けた。しかし彼の船に乗った奴隷への待遇は、動物以下の扱いではあったものの、当時の奴隷商としては飛躍的に改善されたという。

1755年、ジョンは病気を理由に船を降り、勉学と多額の寄付を重ねて牧師となった。そして1772年、「アメイジング・グレイス」が生まれたのである。この曲には、黒人奴隷貿易に関わったことに対する深い悔恨と、それにも関わらず赦しを与えた神の愛に対する感謝が込められているといわれている。(ウィキペディアより)



Amazing grace! how sweet the sound    驚くほどの恵み、なんとやさしい響きだろう
That saved a wretch like me       私のような罪深い者さえも、あなたは救われた
I once was lost, but now am found  かつて私は何も持たなかったが、いまは見出すことができている
Was blind, but now I see.  かつて私の魂は盲目だったが、今は見えている

'Twas grace that taught my heart to fear   私のこころに畏れることを教えたのは神の恵み
And grace my fears relieved    そして、私の恐れを解放したのもまた神の恵み
How precious did that grace appear   なんと素晴らしいことか
The hour I first believed    私が最初に信じたときに授けられた大いなる恵みよ。

Through many dangers, toils, and snares   多くの危険、労苦、誘惑が
I have already come    私の人生には常にあった。
'Tis grace hath brought me safe thus far   ここまで私を無事に導いてくれたのは主の恵み。
And grace will lead me home    そして恵みは私を御国に導いてくれる。

The Lord has promised good to me,   主は私によきものを約束された。
His Word my hope secures;   彼の御言葉こそがわたしの希望の証し。
He will my shield and portion be,   彼は私の盾であり、分かつもの。
As long as life endures.   私のこの人生の続く限り。

Yea, when this flesh and heart shall fail,   この身体と心に衰えがきて
And mortal life shall cease,   死ぬべき命が終わるとき
I shall possess, within the veil,   私はきっと手にいれることだろう。
A life of joy and peace.   ベールの向こうにある平安、そして永遠の命を。

The world shall soon to ruin go,   世界はまもなく滅び
The sun refuse to shine;   太陽は輝きを失うだろう。
But God, who called me here below,   しかし、私をこの世から呼び出す神は
Shall be forever mine.   永遠にわたしのもの。

When we've been there ten thousand years   私たちは、いつまでもそこにいて
Bright shining as the sun   太陽のように輝き
We've no less days to sing God's praise   神への賛美を歌う日々が減ることはない。
Than when we first begun   最初にあなたを賛美を始めたその日から・・・・。

アメリカはコロンブスによって新大陸として発見され(この言葉はキリスト教国側から観ただけの言葉。先住民にとっては発見もクソもない)1776年に独立するまでの間は、イギリスやスペインなどの植民地であった。

先住民と争い制圧した未開の地を開拓するのには多大な労働力を必要としていたため、当初は本国から貧しい者や他の植民地からの捕虜を呼び寄せ、使用人として期間限定で雇用した。これを年期契約奉公人といった。このころは期間契約の雇用だったので一定期間が過ぎれば奉公人は解放され、制度上は自分の土地を持つこともできたが実際のところは職にあぶれた下層階級となり再び雇われの身となるものがほとんどで、またそのような下層階級のものによる大規模な反乱が各地で起こったことにより、外部から連れてきた労働者を解放することに危険を感じた農場主たちは、労働者を奴隷として無期限に使用できる「奴隷法」を制定し、これにより奴隷は法律により合法なものとなる。

1700年代になり開拓が進むと、その土地を開墾し農園として維持するために廉価な労働力が必要となり、またヴァージニア、カロライナ、ジョージアなどの南部の地域ではタバコの栽培が始まった。1600年代には20万ポンドだったタバコの生産量は1700年には3800万ポンドに膨れ上がり、18世紀にはさらにその三倍と拡大していった。そしてさらに綿工業やさとうきび栽培などの新興産業が発達し、南部の各地にプランテーションと呼ばれる大規模農場が作られた。これらの新しい産業を動かすため、アメリカとイギリスの船だけで2000隻以上の奴隷船が大陸間を渡り、5万人以上のアフリカ人が奴隷としてアメリカに渡ることとなる。カロライナ州などは驚くことに人口の65%が奴隷であったという。

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いつの時代であっても、たとえ国が戦争の真っただ中で明日への希望が見えないとしても、歴史上絶対に失われなかったもの。その一つに「音楽」があります。

過酷な奴隷生活の中、奴隷たちには二つの音楽がありました。それは「ワーク・ソング(労働歌)」とそしてもう一つは「スピリチュアルズ(黒人霊歌)」です。ここからの解説は音楽に関する総体的なものですが、多くの民衆の生活の中から生まれた音楽をたったひとつの存在理由や目的などで語れるはずがありません。ですので黒人霊歌に関しては何ページかに分けて、それぞれの角度から研究されたさまざまな説に基づいて検証します。

まずワーク・ソングは農作業の際に歌われていたもので、通常はアカペラでまず一人がゴスペルのリードのような形で歌い始め、それを周りの他の労働者が追いかけるというものが主流だったようです。いわばゴスペルのコール&レスポンスであったり、よく映画の中でアメリカ海兵隊員がランニングをしながら歌っているようなものの原型だったのではないでしょうか?前回の「アメリカでの奴隷生活の一例」でも記しましたが、これらの歌は初期には白人にも好まれて、バンジョーをバックにコール&レスポンスをする躍動的なスタイルがパーティーなどでも披露されていたようです。

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1600年代アメリカにおける白人の入植者たちの多くは、非常に敬虔なクリスチャンでした。

彼らの多くは当時本国ではマイノリティとして迫害されていたプロテスタント教派が多く、逆にそれだけに宗教的自由に対しての強い願望を持っていました。また人生の新たな展開となるアメリカへの入植という過酷な将来に対して、それは単なる人生の選択ではなく、それぞれがみんなが「聖書の御言葉」に従った生き方として入植を選んだという連帯感にもつながっていました。

さてそんな心の支えであり、絶対的な道徳観・価値観の土台であったキリスト教ではありますが、白人入植者は黒人奴隷に対して「布教」という形で伝えることはしませんでした。コミュニケーションの要である英語でさえまともに教えようとしなかったのですから、キリスト教を信仰として伝えることなど初期にはほとんどなかったようです。

それではなぜ白人農場主は黒人奴隷に伝道目的以外にキリスト教を教え、独自の信仰を持つ奴隷たちを強要してまで改宗させる必要があったのか?それは道徳概念の統一と管理が必要であったためです。

まず道徳の部分ですが、西洋文化を有する白人クリスチャンと、母なる大地アフリカで暮らしていた人間が主従関係こそあれど同じ場所で行動を共にすると、行動ひとつをとっても意思や目的は大きく異なります。当時の白人にとってアフリカ人の行動の多くは理解しがたいものであり、また理解する気もありませんでした。ですのでまずルールとして白人の善悪の基準となっているキリスト教(聖書)をベースとした道徳を教えることにしました。

ただしあくまで管理目的であったため、そのキリスト教教育は非常に主人である白人に都合の良い形に捻じ曲げられていました。例えば「奴隷」に関しては、「聖書の中には奴隷についての記述があり、それは奴隷制を否定しているわけではない」、「奴隷は主人に忠実に従うことで神に認められ天国に入ることができる」。 こうした解釈を行うことで奴隷たちは自らの運命を受け入れるようになり、従順になるだろうと教会側も奴隷主たちも考えるようになっていったのです。

しかし教会にとっても白人奴隷主にとっても想定外であったことは、自分たちよりも知的レベルがはるかに劣っていると考えていた黒人奴隷が実はそうではなく、聖書の中に書かれている「神の下では誰もが平等である」という信仰の本質の部分を彼らが完全に理解していたということでした。奴隷主も教会も知らないうちに奴隷の間ではキリスト教は守るべきルールではなく、心のよりどころである「信仰」として口伝えで広まっていくことになります。
白人奴隷主によって強制的にキリスト教に改宗させられた黒人奴隷は、日曜礼拝に連れて行かれそこで聖書に書かれていることを学びます。集団生活のルールとして奴隷主の都合のいい形に歪められた内容ではありましたが、奴隷たちはそこで歌われた賛美歌を耳にします。アフリカから連れてこられた第一世代の人たちは英語で書かれた文字も読めませんから、教会で毎週耳にする賛美歌を口ずさむことから聖書の言葉に触れていきました。白人の牧師が語る言葉よりも、奴隷たちには賛美歌のほうがストレートに魂に伝わりました。

メロディのついた聖書の言葉は、奴隷たちの口から口へと伝わりました。それはルールの回覧ではなく、聖書の御言葉そのものの伝道でした。やがて彼らはその御言葉の数々を信じ、心の拠り所としていきます。特に「出エジプト記」に出てくるモーゼによって囚われた民が救われる箇所は、彼らの心をとらえ繰り返し繰り返し歌われました。しかし表向きには彼らは白人奴隷主にむけては従順にルールを学んでいるようにしか見せませんでした。

奴隷たちの反乱を抑制するため、白人奴隷主たちは黒人奴隷の集会を禁じていました。しかし独自の信仰観を持った奴隷たちは白人の目を盗み、皆が寝静まった深夜遅くに白人たちの家から遠く離れた森の奥などに集まり、自分たちだけの礼拝の時を持つようになりました。彼らが集まった場所は「Hush Harbor」と呼ばれる祈りの場所でした。一日の過酷な労働を終えた奴隷たちはそこでおのおのが神に祈り、歌い、踊り、人間としての真の自由を神に求めました。心から自分たちを解放してくれる救世主の到来を信じ、アフリカ人として継承してきた文化や伝統のスタイルで長い時間をかけて新しい賛美歌を作り出していったのです。これが黒人霊歌(Spirituals)です。

Hush Harborでの集会は危険極まりないもので、もし白人に見つかってしまったら過酷な罰を受けるであろうものでした。しかしその緊張感が逆に黒人霊歌の歌詞や音楽性の独特の深みを与えたのだと思います。隠れた教会による隠れた礼拝で、彼らは耐え難いほどの日常の緊張からの解放を求め、イエス・キリストによる解放の実現を歌いました。教えられた形式上の解釈ではなく、彼らの魂が心から求めたものが歌になった、まさにスピリチュアルズというべき心のサウンドの誕生でした。

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アメリカ東部沿岸にあったイギリス植民地領は本国イギリスによる植民地課税に反発、有名な「ボストン茶会事件」など、本国の増税をもくろむ様々な法の成立に対し、植民地商人の怒りは頂点に達しました。1775年、大規模な軍事衝突が始まりましたが、当時のアメリカ植民地には正式な軍隊などはなく、各植民地の民兵隊がイギリス正規軍と戦いました。戦況は数に勝るイギリス正規軍が常に有利だったにもかかわらず、ニューヨークやフィラデルフィアなどの都市を占拠したものの、当時のアメリカ植民地は広大な範囲に点々と独立自治的な植民地が点在していたため、どこを占領したとしてもあまり意味をなしませんでした。また疫病の流行により、天然痘の死者が戦死者を大きく上回ったりしたこともイギリスの敗因の一つでした。結果的に海を渡っての長期戦により戦況は徐々にアメリカ軍に傾き、1782年イギリス議会は停戦を決議、1783年のパリ講和条約により、正式にアメリカはイギリスからの独立を勝ち取りました。

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アメリカ独立戦争の頃から、徐々にではあったが奴隷制度は国全体と白人にとって好ましいものではないという考えが、北部の市民の間に広まっていきました。アメリカ北部は独立戦争の初期において戦地であったゆえに様々な産業が効率化し、綿やたばこ、砂糖のプランテーションを主力産業とする南部に比べ、奴隷の労働力をあまり必要とはしませんでした。逆にこれからのアメリカ合衆国にとって多くのアフリカ人を国に流入させることによる治安の悪化というリスクの方が大きいと考えたようです。

しかしこの考えは奴隷を自由にするというものではありませんでした。逆に南部の奴隷たちには独立戦争後に非常に大きな試練が与えられます。それは北部諸州が奴隷法を禁止して州内での奴隷売買を違法としたことによって北部の奴隷商人が大量の黒人を南部に売りつけたことや、綿織り機の発明により爆発的に成長した綿花産業が西部に拡大したことによって南部の奴隷たちが高額で西部に売られたことによる大移動です。この国内奴隷貿易と言う新しい市場が生まれたことで、約半世紀にわたり多くの黒人が強制的に移住させられました。

このことは多くの黒人奴隷たちに衝撃を与えました。暴力の支配と無報酬の労役があるとはいえ、南部プランテーションは成熟期を迎えており生活そのものは日々変わりなかったものが、ある日突然家族から引き離されてアフリカから強制移住させられた当初のように見知らぬ土地へと連れて行かれるのです。奴隷商人は黒人奴隷を個々に単体の商品として売買したがりました。ですので若い元気な男性、子供が生める健康な女性などは商品価値が高く、逆に年老いたものは軽労働しかできない価値の低い商品とみなされ安い値段でまとめ売りのようにされました。家族と言う結びつきはまったく考慮されないので、多くの者は引き離され二度と顔を見ることさえできなくなるわけです。また中西部は農地としてはまだ未開拓であったため、森林の伐採、開墾という重労働がメインで、しかも水や食料の供給も十分でなかったために多くの奴隷が命を落とすことになりました。



















プロフィール

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Author:smsgos
こんにちは。Everlasting Joy、S.M.S Gospel Choir代表のBee芦原です。このブログではゴスペルの歴史や聖書のことなどを僕の知識と参考文献からの引用から、わかりやすく解説できたらと思っています。専門家ではないので自己解釈で誤った記述もあると思います。お気づきの方はご指摘いただければ幸いです。

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